なんでも楽しくチャレンジ:arles1988’s blog

いくつになっても、色々なことに興味が尽きません。あれこれチャレンジする日々です。

「風と光と二十の私と」坂口安吾

太宰治の次に好きなのは、坂口安吾です。

高校・大学で読み耽りました。

文庫本はまだ手元にありますが、黄色というか、茶色というか、なんとも言えない色に変色しています。。。。

短編が多いので、なんとなく、ふっと読み返したくなった時にお世話になるのが、

青空文庫」です。

青空文庫 Aozora Bunko

しかし、なんとなんと!

amazon kindleで無料ではありませんか!

なぜだろう????

理由は分かりませんが、即、入れました。 

しばらく使っていなかったKindleをその日の朝に、なんとなく取出して充電していたところだったので、

「うーん・・・、これはやはり何かの縁を感じざるを得ない。

偶然ではない!」

一人Excited状態でした。  

 

 

まさに二十歳くらいの頃に、魂に響いた箇所がここです。

 

私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ

 

満足をするとそこで終わってしまう、そんな焦燥感に駆られます。

「修行」とか「一心不乱に打ち込む」そんなことを好む人に、そういう傾向がありますね。

自分を酷使して、果てしなくストイックにやっていると生きている実感が沸きます。

のんびりするとか落ち着くという状況が好きではありません。

かえって落ち着かないのです。

どこまでも求め続け、走り続けます。

そういう種類の人は、ものすごーく共感できる文章だと思います。

また、坂口安吾の文章には、なんともいえない黄昏感というか、せつない感じ、

秘めた物哀しさがあります。

それでいて、強烈でパワフルで、生命力があり、「激しく生きるチカラ」に魅了されるのです。

 

私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音あしおとのひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
 教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。 

 

「捨てる」ことへの思い

裸でいることへの羨望

本当の自分、素の自分でいたいことへの欲求

刷り込まれた常識や「こうあるべき」という先入観、そういった囚われを全て捨て去り、自由でいたい

捨てるというのは、単に目に見える物だけではなく、目には見えない心の囚われを捨てるということです。

 

20歳の頃に共感し、それから長い歳月が過ぎましたが、やはり共感する気持ちは変わりませんね。

え?成長していないということか?

いえいえ、根底にあるものは変わりようがないということです。

「私は私」