初めて読んだ岡本太郎の本は、これでした。
たまたま、岡本太郎生誕100周年も重なり、ドラマも見ました。
本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいていきているかどうか。
システムのベルトコンベアーに乗せられ、己を失って、
ただ惰性的に生活をつづけているというのなら、本質的に生きているとはいえない。
ならば人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。
一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り。」
大多数の人は「生きがい」という言葉とは、
無縁な生活をしているのではないかと思います。
自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。
己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかねばならない。
今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、
かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。
強烈に生きることは常に死を前提にしている。
死という最もきびしい運命を直面して、
はじめていのちが奮い立つのだ。
死はただ生理的な終焉ではなく、
日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。
この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、
生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。
そのとき「死」が現前するのだ。
惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。
しかし空しい。
死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。
今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。
だから虚脱状態になっているだ。
死は、非日常的で遠いものになってしまっている現代では、
「死」が現前する危機感は、縁遠いもの、異なる世界のことになっています。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。
それが誇りだ。
死ぬのもよし、生きるもよし、
ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。
現在に、強烈にひらくべきだ。
未練がましくある必要はないのだ。
一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、
また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。
人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。
それでよいのだ。
無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
平然と人類がこの世から去るとしたら、
それがぼくには栄光だとおもえる。
「それでよいのだ」
自らを肯定するところから、ひらかれ、輝き、爆発するのだと思います。
「自分らしく生きる」
「自分の人生を生きる」
「自分を生きる」
「自分を見失わない」
月並みな言葉が、やけに心に響きます。