なんでも楽しくチャレンジ:arles1988’s blog

いくつになっても、色々なことに興味が尽きません。あれこれチャレンジする日々です。

「自分の中に毒を持てーあなたは“常識人間を捨てられるか 」岡本 太郎

初めて読んだ岡本太郎の本は、これでした。

 

 

たまたま、岡本太郎生誕100周年も重なり、ドラマも見ました。

www6.nhk.or.jp

 

本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいていきているかどうか。

システムのベルトコンベアーに乗せられ、己を失って、

ただ惰性的に生活をつづけているというのなら、本質的に生きているとはいえない。

ならば人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。

一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り。」

 

 大多数の人は「生きがい」という言葉とは、

無縁な生活をしているのではないかと思います。

 

自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかねばならない。

今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、

かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

強烈に生きることは常に死を前提にしている。

死という最もきびしい運命を直面して、

はじめていのちが奮い立つのだ。

死はただ生理的な終焉ではなく、

日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。

この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、

生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。

そのとき「死」が現前するのだ。

惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。

しかし空しい。

死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。

今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。

だから虚脱状態になっているだ。

 

死は、非日常的で遠いものになってしまっている現代では、

「死」が現前する危機感は、縁遠いもの、異なる世界のことになっています。

 

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。

それが誇りだ。

死ぬのもよし、生きるもよし、

ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。

現在に、強烈にひらくべきだ。

未練がましくある必要はないのだ。

一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、

また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。

人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。

それでよいのだ。

無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。

平然と人類がこの世から去るとしたら、

それがぼくには栄光だとおもえる。

 

「それでよいのだ」

自らを肯定するところから、ひらかれ、輝き、爆発するのだと思います。

 

「自分らしく生きる」

「自分の人生を生きる」

「自分を生きる」

「自分を見失わない」

 

月並みな言葉が、やけに心に響きます。

 

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