なんでも楽しくチャレンジ:arles1988’s blog

いくつになっても、色々なことに興味が尽きません。あれこれチャレンジする日々です。

H・ケント・ボウエン 「サラの物語」

        

昔々勤めていた職場で仲良くしていた年配の方が

この本を薦めてくれました。

ハーバードビジネススクールでは、学期末の最終講義で

教授たちが自らの経験を基にした熱いメッセージを学生たちに

送る慣例があるそうです。

それをまとめた本で、和訳は「ハーバードからの贈り物」

英文は Remember who you are: Life Stories That Inspire the Heart and the Mind

 

「この話が特にいいよ、

子供を育てながら働いている女性が読むといいんじゃないかな」

そう言いながら、プリントした紙をくださいました。

 

H・ケント・ボウエン

(技術・業務管理、MITと共同プログラム

「製造業におけるリーダーシップ」

 

「サラの物語」

 

サラが育ったのは裕福でもなく、有力な縁故もなく有力な条件は何もない平凡な家庭だった。ユタ州の小さな農場で子供時代を送った。彼女は頭が良く、積極性に富み、創意工夫の才に恵まれていた。子供の頃に彼女がやり遂げたことは全て、彼女自身の才能と努力のたまものだった。

・・・・毎朝夜明けとともに起きて、学校に行く前の数時間、家の仕事を手伝った。・・・・学校が大好きだった彼女はやがて本の虫になり、週に2,3冊の本をむさぶるように読んだ。10代になる頃は町の図書館の本を全部読んでしまうほどだった。2年も飛び級したにもかかわらず、卒業式では卒業生総代としてスピーチをする優等生だった。

 

サラがその能力を発揮したのは、農場の仕事や勉強にとどまらなかった。・・・・編み物も、裁縫も、煩雑なパッチワーク・キルトもデザイン見本も何も見ず、色や空間に対する持ち前のセンスを頼りに、端切れを使い台所のテーブルであっという間に仕上げてしまった。

 

14歳でサラは“ビジネスウーマン”になった。父親から、家畜の牛の管理を任されたのだ。学校の勉強と毎日の農場の仕事に加えて、今度は牛達の健康状態に留意し、餌を買うお金の調達から、一日二回の乳搾りまでこなさなければならなかった。地元の乳製品加工業者と値段の交渉をして原乳を売り、帳簿の管理もした。当然ながら事業は黒字になった。けれどもサラは、儲けたお金を自分の小遣いにすることなく、大学に通う3人の兄達の学費の足しにと差し出した。

 

もし違う境遇に育ち、違う選択をしていたら、人一倍聡明で勤勉な彼女は、職業的に大きな成功を収めていたにちがいない。弁護士か医師、あるいは大学教授や企業の重役になっていたとしても不思議はない。――いやひょっとしたらもっと高い地位に上りつめていたかもしれない。ところがサラは、高校を卒業するとまもなく、まだ10代のうちに結婚する。夫と大家族を作ろうとした約束した彼女は、子供を産み、育てることに全身全霊を注いだのだ。

 

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生まれもった豊かな才能で、それまで多くのことを成し遂げてきた彼女は、今度はその天賦の才をわが子のために役立てた。・・・・ 8人の子供を抱え、決して裕福とは言えない暮らしだったにもかかわらず、サラは他人に尽くし続けた。近所から里子を一人引き受け、周囲に良い学校のないサウスダコタの田舎に住む従姉妹を引き取り、学校に通わせもした。

ところが40歳にもならない頃、サラに不幸が襲う。夫がたった一度の心臓発作で他界してしまったのだ。家にはまだ5人の子供がいる。このままでは一家が路頭に迷ってしまう。高校を出てまもなく家庭に入ったサラには実務経験はほとんどなく、収入の道も限られていた。それでも独立心旺盛で自尊心の強いサラは、なんとしても自分の手で家族を養おうと心に決める。だが同時に子供たちがまだ母親を必要としていることも分かっていた。そこで彼女は自分の適性ではなく、子供たちにとって何がいいかという基準で仕事を選んだ。あふれる知性と才能の持ち主である彼女が就いたのは、清掃員の仕事だった。

 

市役所や町の教会

で床磨きやゴミ出しをして、サラは家族の生活費を稼いだ。少しでも収入を増やすため、今でいうフレックスタイムでも働いた。昼間の正規の勤務のほかに、週に何回かの夜と、土曜日には、子供たちも一緒に仕事をしたのだ。収入はごくわずかだったが、こうすることで、毎朝子供たちを学校に送り出し、帰宅時には家にいてやることができたのである。

 

私は、そんなサラの息子の一人だった。

思春期に入る頃から高校を卒業するまでの8年間、私は兄弟と一緒に掃除の仕事をして働いた。

 

その間、私は母の適応能力と勇気(夫を亡くした悲しみとも向き合わなければならなかったことを考えれば尚更だ)を誇りに思っていた―― と言えればどんなにいいだろう。けれども現実はちがった。

誇りに思うどころか、恥に思っていた。清掃員なんて母の品位を貶めるおとしめるものだと思ったし、何より自分が恥ずかしくてたまらなかった。母について郡の保安官事務所に行き、床を掃いたり酔っ払いのゲロの後始末をしているのを、通

りがかった町の人たちに見られるのは屈辱的だった。家族のためにつらい仕事をする母を手伝うことに、とうてい喜びなど見出せなかった。私が文句を言ったり腹立たしげな顔をしたりすると、母は何の感情も交えずにこう言ったのだった―― この仕事をしなきゃいけないのよ。これが私たちの仕事、これが私たちの暮らし方なんだから、と。

 

恥ずべきなのは自分の考え方であり、自分のふるまいだったと気づいたのは、高校を卒業してから何年も経ってからだった。私は、自分がなぜこんなことをしなければならないのかと、そのことに腹を立てていた。けれども溢れるほどの才能を封じ込め、叶えられない数々の夢をあきらめていたのは、母のほうだったのだ。母ほどのひとなら、社会がもっと価値を認める輝かしいキャリアを築くこともできたはずだ。あの頃、清掃員として働く母をあれほど恥ずかしく思っていた私だが、今では母の本当の姿が見える。身を粉にして働き、私のために膨大な犠牲を払ってくれた女性―― それが私の母なの

である。

 

あなたたちは、サラとは違う道を歩むはずだ。だが彼女の物語から何か教訓を学ぶことはできないだろうか?

これまでの人生で、あなたは多くの人に支えられてきた。あなたのために自分の夢や希望やプライドを犠牲にして、助けてくれた人がいる。窓拭きやトイレ掃除ではないにしても、懸命に働き、並々ならぬ犠牲を払ってくれた人たち。・・・

 

会社のリストラで従業員の解雇を考えなければならなくなったら、どうかサラの物語を思い出してほしい。あなたの決断で人生を変えられる従業員は、ただの数字ではない。皆、現実を生きている人間なのだ。それぞれが誰かの息子や

娘であり、父親や母親でもある。一人ひとりが誰かの幸福を願って額に汗し、犠牲を払っている。こうした人たちにも、あなたのために尽くしてくれた人に対してと同じく、敬意と思いやりを示してほしい。

 

彼らの中にもきっとサラがいる。

 

 うちの息子たちが、私のことをどう思っているか、

彼らが働き盛りの年代になった時に、どう思うか、

全く検討がつきませんが(笑)

精一杯、余力を残さず生きていきたいと思っています。

 

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